今年も4ヶ月が過ぎて、新年度が始まり、ゴールデンウィークも終わりましたが、皆様におかれましては、お元気でお過ごしでしょうか?


今年も桜を見に行きました。

私は相変わらず、あまりパッとしないのですが、なんとか元気にしております。

これやってみようと思うことはたくさんあって、どれも形になりつつあるのですが、どのような形で発信するのがいいのかというところで逡巡していたりします。ネット経由で誰でも簡単に発信することができるようになったのはいいんですけど、そこから先のところをどうするのかということがかえって以前よりもわかりにくくなってしまっているような気がしています。

新年度を迎えて、学校の授業やレッスンも始まりました。教える側で学校に行くようになってからもう20年になりますけど、学生の皆さんとの新たな出会いはいつも新鮮な気持ちにさせてもらえます。レッスンで受け持つ学生さんが増えたこともあって、しばらくは学校終わるとグッタリしてましたが、そろそろペースもわかってきた感じで連休を迎えておりました。

学校でお話しする内容は、年を経るごとに「そもそも」のお話をしたいと感じるようになってます。例えばコードプログレッションというコードのつながり方について解説したりするのですが、実用的な和声の繋がりを作る方法についてお話しする前に、「和音」や「コード」という考え方のもとになっている、複数の高さの音が同時に発音されるときにそれらの音が協和するというのはどういうことなのか、ということについて考えてみましょうみたいななことです。
コードのお話をするときに一番最初に出てくるのが、メジャートライアド(長三和音)というコードなんですけど、これを説明するときに「協和する完全五度音程の間にルート(根音)から長三度上の音程があるもの」みたいな話するんですけど、完全五度の音程が協和するのは何故なのかということがわからなければその説明自体があんまり意味を成さないですよね。でも、そこはあんまりちゃんと説明しないんです。
ピタゴラスはそのことを数学を使って説明しようとしました。音は空気の振動なのでその振動数の比が単純であれば協和していると考えたのです。その後オイラーは物理学的な観点から2つの音に共通して含まれる倍音が多いほど生じるうなりが少なくなり、それによって協和していると感じるのだと考えました。19世紀末以降にはシュトゥンプなどの心理学者が音の協和について考えるようになり、より多くの聞き手が一つの音として感じ取るものが協和的であり、協和不協和は量的差異であって質的差異ではないのだと言ってます。
音楽の話をしようとしているのですから、音を聞いてどう感じるのかということが大切です。ですから音というものを人間がどうやってどんな風に認知しているのかということを知らなくてはなりません。物理的には空気の振動である音を、それを捕らえる鼓膜から脳までの間でどのように処理して、届いた信号を脳でどのように解析しているのだろうかというようようなことも気になってきます。

まぁこれ以外にも色々考えてることはあるのですが、書き出すと終わらなくなってしまうのでこの辺にしときます。

どんなことでもそうなんでしょうけど、「どうしてそうなっているのか」みたいなことを考え始めるとキリがないですし、調べれば調べるほど自分がいかにものを知らないのか、はっきりと解明されていなことがいかに多いのかということに気付かされて、底のない沼にはまり込んでいくような気分にさせられる毎日です。まぁ、それはそれで面白いからいいんですけどね。

そんな風にああでもないこうでもないとぐるぐる考えてみたり、そのために必要となる数学や物理学や心理学や哲学・美学のようなものに視点を広げて何かを見つけてみようとする、というようなことができるのが学校という場の面白さで、それに関わって学生さんたちとお話しできたりするというのは、何かと大変ではありますけど結構面白いものだと思っている今日この頃でありますです。

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