音楽家が出てくる物語というのは、映画でもドラマでも小説でも、むかしから山ほどある。たとえば1933年のオーストリア映画「未完成交響楽」。92年も前の映画だから、文字通りのクラシック映画だ。いちおうシューベルトの伝記映画ということになってはいるが、ストーリーはほぼ創作なので、音楽史の勉強にはならない恋愛映画である。

まあしかし、音楽家が主人公の映画なんてものは、だいたいがファンタジーだ。音楽家という人種は、どうも世間から“浮世離れしていて、日常生活では透明化している妖精”みたいに思われているらしい。公共料金の支払いに汲々としていて、電車で移動する「妖精」だ。

R・シュトラウスの《アルプス交響曲》やオネゲルの《パシフィック231》みたいに、情景描写をしている音楽もあるにはあるが、音楽に絵や文章のような具体性を持たせることは簡単なことではない。

「これは鉛筆です」を文章や絵で示すことはできても、音楽で「これは鉛筆です」を表現するのはなかなか厄介である。何らかの共通認識や記憶にひもづけられた音が、瞬時に鮮明な情景を呼び起こすということはあるのだけれど、音楽で実用的に“何かを指し示す”というのは、不可能だといってもいいだろう。

しかしその一方で、楽器の演奏には超人的な運動能力が必要とされ、作曲は意味があるんだかないんだかわからない高度な理論に支えられているように見える。そりゃあ「音楽家は別世界の住人なんだろう」と思われても仕方がない。なんなら私自身も「まあ、そうかもしれん」と半分思っているところもあったりする。

とはいえ、ずっとやっている本人にとっては、それほどドラマチックではない。毎日やってりゃ日常になる。で、日常というのは、ちょっとした“違和感”がやけに目につく領域だ。

例えば「勘違いされた日本」。昔の映画によくあった、アジア全域が謎にごちゃまぜになったあの風景である。欧米の方々にとっては「まあ、だいたいこのへん全部似たようなもんでしょ?」なのかもしれない。しかしこちらとしては「いや、だいぶ違いますけどね」と言いたくなる。別に怒っているわけではない。まあ仕方ない。でも、どうにもモヤモヤする。

そしてその瞬間、物語への没入はどこかへいってしまって、違和感が主役になってしまう。そんな経験ありませんか?

同じようなことを「音楽家の物語」にも感じるのだ。主人公がいきなり天才的な演奏をしたり、「それはさすがに無理だろう」と思うような成長スピードを見せたり、誰が用意したのかわからない完璧な楽器が唐突に登場したりすると、もうだめだ。打ち捨てられたピアノで練習する天才少年の話でも、「そのピアノの調律はどうしてたんでしょう?」とか考えてしまう。やれやれ。

そんな中、「戦場のピアニスト」は不思議と違和感がなかった。主人公は非常時には全然役に立たないくせに文句ばっかり言っているのだが、最後には“音楽家としての力”で生き延びる。その感じがとても音楽家らしいと納得できてしまったのかもしれない。ジョン・カーニーの映画も、音楽が物語の芯にある作品が多いが、不思議と引っかからない。冷静に考えると「いや、そうはならんだろう」と思いそうな所はあるのだが、それを超える説得力や温度を感じて自然と物語に引き込まれている。

ちょっとした違和感ひとつで物語を楽しめなくなってしまうのは、損な性格だとは思う。でも、気になるものは気になるので仕方がない。

最後に、音楽家の物語は「主人公は貧乏でした」から始まるものがやたら多い。「未完成交響楽」もシューベルトが質屋にいるところから始まる。それについては、何の違和感も感じないのである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です