展覧会の告知を見て、「これは面白そうだ、ぜひ行ってみよう」と思うことがある。
ところが、うっかりしているうちに会期が終わってしまうことが少なくない。思い出したときでも「最近ちょっと忙しいけど、まだもう少し日があるから落ち着いたら行こう」なんて考えていて、気がつけば終わっている。そんなふうにして、見たかったものを逃してしまうことがよくある。なんとももったいない話だ。
東京国立近代美術館で開かれていた「記録をひらく 記憶をつむぐ」展もそうだった。開催直後に内容を知り、これは見ておきたいと思ったのに、気づけばもう終了の月になっていた。今回は思い出すのが早く、翌日がたまたま空いていたので行くことができた。
このところ、世界のあちこちで「どうしてそんなことになるんだろう」と思うような出来事が続いている。長く続いてきた仕組みに限界が訪れつつあって、その仕組みのあちこちが軋むように音を立て始めているのかもしれない。大きく方向を変えるには、それなりの準備がいる。針路が定まればまた進み出すのだと信じたいけれど、その転換に、自分の乗っている船は耐えられるだろうか。
表現活動を行うということと、社会的な事柄に対して意見を表明するということは、外から見れば似ているように見えるかもしれない。しかし、内側から見ると両者はまるで違う。多くの人に向けて作品を発表することと、自分の考えを主張することは似て見えても、目的が異なる。表現はそれ自体が目的であり、主張は何かを動かすための手段である。だから、作品を「解釈」されて「社会的主張がある」と言われても、こちらとしては「ただ面白い音を出したかった」「描くことを楽しんでいただけだった」ということもあるのだ。
戦争画、あるいは戦争記録画と呼ばれる絵がある。戦争の様子を記録するために描かれたものだ。東京国立近代美術館には、アジア・太平洋戦争の時代に描かれた戦争画が多く所蔵されていて、今回の展覧会はそれらを中心に、戦争とその時代に生きた画家たち、そしてそれを受け止めた人々の姿を見つめ直そうとするものだった。
戦争画を描いた画家として藤田嗣治はよく知られている。そのせいからか、戦後に彼は日本を離れ、フランスに帰化して日本に戻ることはなかった、という話は知っていたが、今回の展示では、想像していた以上に深く藤田が戦争画に関わっていたことを知った。
藤田は「自分はただの一兵卒として戦争に加わっただけで、将官ではなかった」と語っている。これは私の想像だが、戦後に手のひらを返したように、そのことを責められたことがその発言の背後にあるのだろう。けれど、表現者が戦争に「加わる」というのは、普通の兵士とは少し違う気がする。
もともと表現というのは、人に何かを伝える行為だし、それが上手な人ほど人の心を動かす力を持っている。芸術作品の作り手として、天才的であるというような評価を受ける人が、明確な方向を持った考え方に多くの人を誘導しようとして、その能力を利用されたのだとすれば、本人の思惑以上に多くの人に強い影響力を及ぼすことになるのだろう、ということは想像に難くない。文章を綴ったり、絵を描いたり、音楽を演奏したりする、ということの動機や出来上がるものは、純粋で単純なものであるが、それが人の心を動かすような力を持っていれば、作り手の意図を飛び越して、大衆を扇動する道具として利用されることがあるだろう。
優れた作品は、人の心に直接届く。その感動がもし、優越感や憎しみ、怒りや復讐心の引き金になってしまうとしたら、作者はそのことをどう受け止めればいいのだろう。
従軍画家として戦争画を描いた小川原脩の作品も展示されていた。航空機を描いた戦争画と、戦後に故郷の北海道に帰ってから描かれた風景画、そして「この戦争画を描いたのも私なのです」と語る彼のインタビュー映像。淡々としていながら、どこか痛みを滲ませてそう話す姿が印象に残った。歴史の流れに翻弄された一人の画家が、どう生きるべきだったのかと自問し続けた長い時間を想像して、私はその絵の前にしばらく立ち尽くしていた。
何を言いたいのか、自分でもよくわからない文章になってしまった。
そもそもこんなややこしい話を書くつもりじゃなかったのだ。お気楽に好きなことを書いていこうと思って再開したブログなのに、再開早々こんな話になってしまった。
でも、たまたま見に行った展覧会の内容が、軽くやり過ごせるようなものではなかった、というだけのことなのだ。面倒な話ではあるけれど、自分以外の世界に触れながら生きていくというのは、きっとこういうことの連続なのだろう。
面倒でも、見なかったことにはできないことが、この世の中にはたくさんある。
